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ジャスパー

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日本パステルホープアート協会公認 正インストラクター。
協会認定指定校「ジョナサン」を運営しています。
(活動はゆる〜くやっています)
ほとんどが独り言のブログです。

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5月22日

2009.05.22 04:57|日常のこと
先日ダンナに「薄型のコンパクトデジカメ買おっかな〜」と言ったところ「どうせ『発色が悪い』とか『ピンが甘い』とか言うに決まってるからやめとき…」と言われました


今私が商品写真などに使っているマクロレンズは23年前に買って使い続けているものです。
15年くらい前に日本橋の中古ショップで買った300ミリ望遠もいまだ現役。
一眼レフは楽しいのですが、文庫本みたいにバッグにポンと入れられる可愛いカメラも一度持ってみたいなあと昨夜突如思い始めました。
理由:私の携帯カメラがたいしたことなかったから。
今までほとんど眼中になかったけど、オシャレなカメラを持ち歩くってオシャレだよなーー(日本語がなってません
これまで写真を撮るってオッサンのような感覚だったのです。
先日更新した猫写真も公園の地面に這って蚊に刺されながら撮りましたが、猫から離れて遠くから狙っているので「こいつはココで何をしているのだ。」と、行き交う人々の視線が刺さりました。。

実は先日カシオペアさんが出版された本を頂戴して(ありがとう〜)、私もプチ写真集をいつか作りたいなあと思ってしまったのです。
一眼レフをいつも持ち歩くのは不可能だし、携帯のカメラもたいしたことないと知ってしまって、日常気軽にサクサク撮れそうなカメラが一台あると私のカメラライフはなお充実するなあと、「ちっちゃくて可愛いカメラが欲しい欲しい病」にかかってしまったわけです。

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夜な夜なこんな日記を書いているということはですね、つまり、暇なわけです仕事が (:D)| ̄|_

なので一度書いたのに消えてしまった「貧乏ネタ」を書いておこうかなと。

とは言っても「私、こんな貧乏でした」と具体的なことをあげつらってもつまらないので(自分が)、書きたいなあと思っていたのは「妬みの心理」のようなことでした。

「子ども時代に貧乏な環境で育つと、成人後は人や世間を妬みがちな卑屈な人間になる」と言ってのけた人がいるのですが、若い時にこれに猛反論したことがあります。(酒の席でしたが・笑)
妬みというのは「同じものを自分も持っている、望んでいる」からこそ起きることが出来る現象で(比較)、まったく何もないゼロの状態、希望もない状態では他人を妬みようがないのではないか、ということを自分の子ども時代をふりかえるとはっきりと感じることがあります。

小学校高学年の時にNちゃんという友達がいました。
彼女の家に他の友人とともに初めて遊びに行った時に、私達は驚いたのですが、それはそれは立派なお家で、玄関を開けると赤い絨毯を敷いたらせん階段があり、黒いピカピカのピアノを置いたピアノ部屋があり、Nちゃんの部屋には綺麗なレースで出来た天蓋付きのベッドがありました。
映画でしか見たことないような、もうほんとうに夢のようなお家でありました。
「寝る時はこれをかぶって寝るねん」とNちゃんがナイトキャップをかぶって見せてくれましたが、私は「なんで寝る時に帽子かぶるんやろ…」と不思議に思ったものです(笑)
私はNちゃんの家がすごく気に入ってしまって、そのあとも一緒に行った他の友達を誘って「行こう、行こう」と言うのですが、何やら様子がおかしいのです。
あんなに仲が良かったのにNちゃんの悪口を言い出す始末です。

一緒に行った友達のひとりはお家に古いオルガンがあり、彼女はオルガンを習っていました。
Nちゃんはピアノを練習するための専用の部屋を持っており、そのことがその子の何かを刺激したのだと思います。
もうひとりの別の友達も同じように、何かにつけ「ちょっと家が大きいからって…」というようなことを言い始めます。

妬みというのは集団生活の中で得るエネルギーのひとつですから、子どもの頃に競争心や向上心を発達させるためには重要な要素のひとつだと思います。
どこかの心理学者の人が、「運動会などでビリになる子が可哀想だからと言って、みんなで一緒に手を繋いでゴールイン!などとやるのは自我の発育に悪影響はなはだしい」と怒っていましたが、人社会で生きていくためには他者に勝つこと負けること、そこから起きる妬みの力も自分の糧として統合していくものだと思います。その基盤を作るのが子ども時代なのだろうと思います。

私はほんとうに何も持っていなかったし、親がオルガンとかピアノとか絵画とかそういった習い事をさせてくれるとは想像すら出来ない状況にいたので、Nちゃんを妬みようがありませんでした。
言い方悪いですが、完全な負け犬はもはや他の犬のことを気にしない(出来ない)ような気がします。
ゼロにどんな数字を掛けてもゼロです。

「持っている」からこそ妬むことも出来るわけで、持っているものが多ければさらに持っている人のことを妬むでしょうし、それゆえパワーも大きくなるのかも知れません。

それで、その人の言うことに猛反論したわけです。

じゃあ、妬むことが出来ない人間はどうなるのかと言うと、他者との競争にすでに落ちているので、自分の中で価値観を作りあげるしかありません。
人と比べて自分はああだこうだと思い巡らす機会がなく、他者というものがどこかで抜けてるわけです。
自分の中で価値観を作りあげるとか書くと、なんか独創的で自立した立派な感じがしますが、子ども時代のことですから、例え勉強が出来たとしても、その感性のせいで集団に馴染めなくなったり集団における自分の位置がわからなくなったり、社会生活の重要性を見失いがちになる気がします。
自分や自分の世界に集中しすぎるのかも知れません。というかそうしなければ急速に成長する自我に対して、自尊心を保てなくなってしまうのだと思います。
少なくとも私はそのクチでした(-_-;)
そのことは確かに独自の世界観のようなものを作りあげ、良い作用を起こすこともありますが、やはり人社会を生きる時にはネックになりやすいように思います。

ただ、大人になってみると、他人と自分を比べることをしない(出来なかった)子ども時代を過ごしたせいで、妬みというツールが育ってないぶん、楽なことも多い気がします。
なんでみんなはそんなに人のことばかり気にしてるんだろうとか、何を妬んでいるんだろうとか、なぜ一生懸命見栄を張ってるんだろうとか、そう思うことがやたらとあります。
もちろん「私は妬みや虚栄心のない心の綺麗な人間なのよ」と言いたいわけでなく、正しく言えば、他人の「持ちもの(有形無形とも)」にあまり興味がないと言えます。
誰かが褒められているとそれだけでその「誰か」を攻撃する人がいますが、そこには「自分だって認められてもいいのに!」というような複雑な嫉妬の心理があるのだろうと思いますが、価値観がなんだかヘンな位置にあるので(社会と足並みが揃わない、社会性の欠如とも言えます)、その場でムッとしたとしても葛藤に持ち込めるほどのその件に重要性を与えられないのだと思います。
何しろ、自分が中心のいわゆる真性の自己中ですから、人から認められるために頑張る!とか、人に負けたくない!とかあまり興味が持てません。(私の場合)
そのかわりに、自分の興味があるものは世間から見てズレてるかも知れなくても突っ走る傾向にあります。
いわゆるオタクですね。アニメやゲームに限ったことでなく、独自の強固な価値観です。

・・あれ、なんか、自分の性格の悪さをさらしているだけのような気がしてきました(笑

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子どもの時クリスマスというものをしたことがありませんでした。
(ある冬それでもくつ下を枕元に置いて寝ようとしたら、「なに汚いことしてるねん」と怒られました・笑)
もちろんツリーもありませんから、向かいのお家の窓に光る赤や青の光をうっとり眺めたものです。
「その時その子は、なんで自分にはツリーがないのかと嘆き悲しみ、その向かいの家のツリーを羨むでしょう」と思われるかも知れませんが、おそらくそれはツリーのある人生を送った人の言う言葉で、ないものは最初からないですから、所持したことがないわけで、ツリーどころかケーキもごちそうもプレゼントもありませんから、ディズニーのアニメや外国映画を見るような気持ちでただうっとりと眺めるだけなのです。
その時何が起きたかと言うと、他の家々、たくさんの窓から見える輝くツリーがすべて自分のツリーであるかのような錯覚でした。
「自分が実際の持ち主かどうか、所有しているかどうか」はたいしたことでなく、私はNちゃんのピカピカの黒いピアノに触れることも出来たし、天蓋付きのベッドも見ました。
友達から貸して貰うしかなかった自転車もレコードも本も、夜空の星座でさえ、それらはすべて私の世界にあり、私のものであり、私の友人でした。
最も何も持っていなかった時代に、私は最も多くのものを持っていたように感じます。
これは不思議な感覚ですが、追い詰まるとこんな妄想を作りあげてでも子どもは自我をなんとか成長させようとするのかも知れません。

高校生になってバイトをしたお金で私は小さなクリスマスツリーを買いました。
12月にはそれを毎年出していたのですが、結婚後に震災の時に壊れて捨ててしまいました。
でも、その自分のツリーよりも、やっぱり子どもの頃に見た「お隣の窓越しのツリー」のほうが美しかったのです。
社会人になってからは、冬になると自分の買ったツリーに百貨店なんかでいろんなオーナメントを買って飾りましたが、あの時の「お隣のツリー」にはかないませんでした。
電飾やら飾りやらお金をかければかけるほど、ゴテゴテと下品なツリーになりました。

それ以降ツリーは買っていません。
手に触れることはありませんが、永遠に輝き続けるツリーをひとつすでに持っていたことに気づいたからです。

・・と、
まあ、貧乏人の子が繰り出す空想というのは凄いもんだなと、たまにそのことを思い出して苦笑したりするのです。
私にとってファンタジーとは、ハリーポッターのような冒険ストーリーでなく、現実の辛さを忘れるためのおとぎ話でもなく、自分の自己実現のための表現の道具でもなく、現実と非現実の間に存在し、知らずに今なお影響し続ける、私を生かすひとつの焔であります。

こういうネタはずるずる書けるし、オチもないのでまとまらないですが・・。

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